マットな日々。in Melbourne

趣味と哲学とメルボルンレポート

メルボルンのテロを踏まえて僕が哲学的に思うこと。

こんにちは。お久しぶりです。

 

最近あまり時間がなくて(課題に追われて)更新していませんでしたが、ちょっと気になる事件が起きたので新鮮さを損なわないうちに、

 

この事件に意見するわけではなく、

自分の人生に思うことを書きます。

 

 

メルボルンの中心部で、ガスボンベを積んだ車に火をつけて(爆発はしなかったが)ナイフで通行人を無差別に切りつけた。3名が死傷とのこと。

尚、この事件はテロとして扱われているそう。

そういう事件が一昨日ありました。

 

今年はもう一件、テロではありませんでしたが上半期に、歩行者に車が突っ込むような事件がありました。

 

そういう事件が起こる度に思うのですが、 

「人はいつ死んだって不思議じゃない」

 

自分が今海外にいるからなおさら敏感になっているのかも知れません。

実際は日本国内でもたくさん殺人事件があって、

ドラッグで狂った人間が歩行者を大量に轢いたとか、

学校の教室で騒いでたら他の生徒から怒りのあまり刺されたとか、

恋人を巡る人間関係が悪くなって恨み買って殺されたとか。

放火されたとか。

過去に遡ればテロもあった。

 

人の命は脆くて、病気だとか、交通事故とか、予期せぬ要因で終わってしまう。泥酔して階段踏み外して死ぬ人だっている。

いつ死ぬかなんてわからない。

先進国に関しては平均寿命は長くセットされてるけど、それでも突然死ぬことだってある。

 

何故なら、人間が犯罪を起こすから。

極論は、人間が生きている限り犯罪はなくならない。

程度は上下するけども、例えば窃盗や詐欺。激しいものだと殺人、テロ。

絶対安全が保証されるユートピアは存在しない。

 

僕が、個人的に人生について考えていくうちに、

 

自分用に立てた万物における前提のような仮説があります。

「全ては、必然である。」

個人的に、そう思っているだけなんです。

他人事だと思ってそういう風に考えるような、一見冷酷なような。

 

 

じゃあ、どうやって罪なき命が無差別に奪われた事象を説明する?彼らはそんな死に方をする必然の下に生まれてきたのか?

という新たな問いが生まれます。

だからこそ未完成の、「仮説」の状態なのです。

まだそれを説明する段階には辿り着いていませんが、もしかすると無理でしょう。

そもそもこういう問いに関して普遍的な解を見つけ出すことはないでしょう。

自分なりに解釈して、身の回りの物事を勝手に定義して、土台を作って、自分の人生を考える上でのインフラ整備に過ぎないのです。

そういう超個人的な話なので突っ込まないでください。

 

要は、

この仮説を用いて自分の人生を考えると、

いつか突然訪れるかも知れない必然的死を覚悟して、「今、この瞬間を真剣に生きる必要がある」ということです。

僕がオーストラリアで勉強することを決意して、それでこの数年間のうちにテロ、もしくは何らかの外的要因で死ぬことがあっても、それは僕の必然なのです。

今の、「他人事的精神状態」だから言えるのかも知れません。

 

生きていることは、死に向かうことであり、死を覚悟した上で僕はどんな命の燃やし方をするか?どんなプロセスを望むのか。

 

オーストラリアに来て、環境的要因からか以前に比べてそういう事を考えるようになりました。

 

という、自分の為に書いた思考のログとしての記事でした。

 

 

 

 

 

 『雨』

f:id:jinsei_survey:20181111080230j:plain